私は24歳の時、失明寸前の網膜剥離を電気メスで手術を受け、両眼に包帯を巻かれ、安静にして寝ているだけの日々を過ごしました。
真っ暗闇の中で考えることは、ネガティブなことが多くなって来ます。既に身重の妻がおり「自分の目が見えなくなったうえ子供が生まれたら、妻は2人を抱えて大変な苦労をするだろう。それなら離縁して子供を堕ろせば、彼女は一から出直せる」などと考えてしまうのです
幸い手術は成功し,私は失明を逃れました。しかし、後から入院してきた同世代の男性は剥離した位置が悪く、当時の技術では手術ができませんでした。許嫁が見舞いに来ているのを傍で見ていても、本当に辛く気の毒でした。
が私にはどうしてやることも出来ませんでした。
この時の体験が動機となって、「治してやる事も、代わってやる事も出来ないなら、そうした人達の為に誰もが住みやすい街づくりと制度の充実を図りたい」と強く思うようになりました。
そして26歳の昭和50年4月、自転車でお金をかけない選挙を行い、初当選させて頂いて以来、地位や名誉や金のために武装された議員でなく「裸の議員」として”ふつうの市民”の声を行政に反映すべく今日まで福祉を始め、様々な課題に取り組んで来ました。
出生数が減少し、高齢者人口が増える中で、保育所や学童保育室を充実して待機児童を解消し、子育て世代の切実な願いを叶える事は、生産年齢人口が減少する中で将来の人材を確保するためにも重要なことです。
また、高齢者が自分の家で安心して暮らすための交通手段の確保、医療や介護制度の充実に柔軟な対応力が求められます。
老老介護を身をもって体験している者として、一隅を照らす役割を果たし、取り残される人のない狭山市作りに全力で取り組む覚悟です。 |